愚行したことをいろいろ書いていく、、
下に「数寄屋橋ハンター」のことを書いた、、それからまたつらつら思考は迷走するのでした、、
つまるところ、オーディオは すべて ノルタルジ~なのだろうということ、、
どんな最新録音も録音されたいう時点ですでにもう過去のものなのであって、、
それは、大昔のフルトベングラーやクレンペラーのものでも、最新のラトルのものでも、、、CDでもネットでも、あたしらが聞いているのはすべて過去のもの、、
最近の過去でも、遠くの過去でも、過去はすべて過去というひとくくりでしかないです。
CDやネットファイルやLPや、、、かたちはちがうけれども、、すべて博物館みたいなものだ、、博物館におさめらえているのはすべて過去のものか、死んでしまったものだ、、
死んでしまった動物をあたかも生きてるようにみけかけている剥製なんてのが博物館にはそれころ死ぬほどある(笑)。
それでも人は自分がいつ死んでしまって、過去という大くくりの中に入ってしまうことを知っているから、それが一体どういうことなのか知りたいという欲求があるので、、博物館もしくは博物館的なものにたまらなくあこがれるんだろうと思う、、
オディオも博物館だ、、あたしらが音楽を聞くとき、それはすべて過去の現象(もの)= 音、演奏、、空気を聞いている。それこそ耳をすまして、その時代から伝わってくるものを聞いている。
オディオ機器は、本当にタイムマシンであって、その精度があがればあがるほど、あたしらはその時代の「何か」とコネクトできる、、
博物館に陳列されているものが、剥製のように、いくら生きてるように細工されていても、それはスタテックで動きはしない、
しかし、オディオは、一枚のCD盤やLP盤をトレイに入れて、ターンテーブルの載せて、スイッチを押すと、時計のようにモータが回り、、過去が今という時間の中で、、「再現」される。
それは実に実に不思議なことだ、、 再現された過去からの音楽を聞いて、あたしらはこころから感動することがある、、
そういうとき、あたしらは、今にいるんだけど、過去を生きているといっていいのかしらん、、
そして、その音楽にくっついて、今までのあたし人生のいくつかの映像が想起されたりする、、ほらこの間のエルガーのチェロ協奏曲のように、、
今日も何気なく、CD盤をトレイの中にいれている訳だけども、それはあたしらを過去に飛び込む儀式みたいなものかもしれない
オディオ機器は祭壇に似てると思うことがあった、、音楽がはじまると、音楽の神が過去から降臨してくるんだよなと思うときもある。
そして、ソファに座って音楽を聞いている、このときも、次の瞬間には過去になっている、、
オディオは実に不思議な行為なんである、、
そして、オディオはすべてノルタルジ~なんである、、